熊野本宮大社大斎原・いだきしんコンサート

「開闢の光景」 国 民の生命を守り繁栄する新国家建設にむけて

 地と眼前の空間から光が生まれ、やさしい気に包まれ光はこの身と溶け合い上へ上へと上昇し空を明るくする。夕暮れ時、受容され体内は奥深くから温かで、身は軽くなり、未来に向かうエネルギーに満たされました。徐々に暗くなる大斎原で光が広がり、気が満ち、明るく天に向かう光景を表現せよと・・・。
 世界は新しい普遍的な生き方、新しい秩序を必要としています。しかし、いまだ方向は定まらず、元々からある自然、貴重な文化は破壊されています。生命は蝕まれ魂は傷ついています。
 我が国は海、山、川、森林に恵まれ、自然との一体感の内に逞しい身体と輝くばかりの魂を育んできました。
 現代は、全てを受け入れてくれる自然を必要としています。特に身体と魂を受容する特別な場としての自然を必要としています。特別な場としての自然は天と繋がり、人に生きる意味、真の感動を与えます。個々の生命は癒され、魂は再生します。
 誰に言われ、頼まれた訳でもないのですが、人々が元気よく、魂豊かな人生を歩んで欲しいという強い気持ちが熊野に向かわせ、受け入れられました。体内に輝く魂は愛、未来に繁栄を築く根源的な力です。困難、患難などを克服し、克服するごとに燦然と輝く・・・。何事も何人もどのような宗教も受容してきた熊野。熊野への一歩が新人生、新時代の平和な一歩になることでしょう。熊野は全ての人々に開放された聖地です。

 

 

 遠い神代の昔から二千年の歴史と伝統を有する「熊野信仰」。その歴史には日本人の心が流れ、時代が移り変わろうともこの熊野の神気が訪れる人々の心と体を癒し、いつしか「甦りの信仰」と称されるようになりました。心と体の癒しを求めて二千年の昔から老若男女貴賤を問わず、それこそ星の数ほどの人々が熊野を訪れたのです。
 熊野を古来より「黄泉(よみ)の国」と称しました。伊奘冉尊(いざなみのみこと)を紀野国の熊野の有馬村に葬ったという「日本書紀」の記述によるものでしょう。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)は黄泉の国に伊奘冉尊を取り戻しに行かれ、結局事敗れて黄泉の国から逃げ返ってこられますが、このことを指して「黄泉返り」と称し、「甦る」の語源になっています。
 熊野の大神の神使いは、太陽の化身・八咫烏(やたがらす)でありますが、八咫烏には三本の足があって、それぞれ天・地・人を表しているとされています。天とは神のことで、地とは我々の暮らす大自然のことです。わが国では神話の昔から、神と自然とは祖先を同一にする兄弟であり、また人はその子孫であるといいます。
 しかるに近来、人が自らを偉いものとし、自然を単にそこに存在する物としかみなさない、人間中心の考え方がまかり通るようになってきました。
 八咫烏の指し示す、神と自然と人が血の通った親兄弟であるという日本の心の「大道」。時代の節目に求めるべき、人々の再生への道が熊野詣であり、それこそが日本を黎明にいざなう始まりだと深く痛感いたします。

熊野本宮大社 宮司 九鬼家隆